熊本県水俣市 協立クリニックは、水俣病の診断・治療・リハビリ、神経内科、精神科、内科を専門としています。
チッソ株式会社(以下、チッソ)は明治41年(1908年)に水俣に設立され、化学工業分野で日本の経済成長に貢献してきました。しかし、チッソは大正14、15年頃には工場排水による漁業被害を既に起こしており、漁協に対し補償を行っています。昭和7年(1932年)からは水銀を触媒として使うアセトアルデヒドの生産を開始し、その排水が無処理のまま海に流されていました。
戦後、チッソはアセトアルデヒドの生産を拡大し、昭和25年(1950年)頃から生産方法を変え、排水にメチル水銀が大量に含まれるようになりました。この頃から、魚介類、鳥、猫、豚などに異常や異変が起こったのです。水俣湾の魚が海面に浮上し、カラスが空から落ちたり、 猫が踊り狂ったりするようになりました。漁獲量は昭和20年代後半から急激に減少しています。
昭和31年(1956年)4月21日と23日、5歳と2歳の姉妹が原因不明の神経障害でチッソ附属病院に入院、同病院の細川一院長は、同年5月1日に水俣保健所(伊藤蓮雄所長)に報告し、これが水俣病公式発見とされています。しかし、細川院長は、同様の神経症状をきたした患者の発生を昭和28年12月までさかのぼりました。また、戦前の昭和17年(1942年)にも劇症水俣病と類似の症候を呈した患者が発生していたといわれています。
当初、水俣病の原因は判明せず、「奇病」と呼ばれ、感染症を疑った隔離や差別もあり、昭和31年(1956年)10月の熊本医学会では、感染症の可能性は否定されましたが、差別は解消されませんでした。
同年12月、熊本大学の喜田村教授が水俣湾内の魚介類の危険性を証明しましたが、これらの研究は行政によって無視されました。
チッソは、昭和33年(1958年)9月、それまで被害が発生していた水俣湾への排水口を水俣川に変更し、八代海全体に汚染が広がっていきました。
原因解明にチッソと行政が協力しない中、熊本大学の研究班は、昭和34年(1959年)7月、その原因を有機水銀と結論づけました。同年11月12日、厚生省食品衛生調査会・水俣食中毒部会は「奇病」の原因をある種の有機水銀中毒と発表し、更なる調査の必要性を認めましたが、厚生省は翌日それを解散させました。その後の必要な調査はなされず、食品衛生法、水質二法、熊本県漁業調整規則などによる法的な漁獲規制も行われなかったため、チッソはアセトアルデヒドの生産を続け、排水は海に流され続けることとなりました。
この国の政策は誤りであったと、最高裁の判決で指摘されています。昭和34年(1959年)12月、チッソは水銀除法に効果があるというふれこみでサイクレーターという排水処理施設を完成させましたが、このサイクレーターは工場内の水銀を含む排水系統とは無関係で、全く効果がなかったことがその後明らかとなりました。
昭和43年(1968年)5月、チッソによるアセトアルデヒドの製造が終了し、全国のアセトアルデヒド工場の操業が停止された後、同年9月、政府は水俣病の原因をチッソのメチル水銀と認め、水俣病を公害病と認めました。すでに水俣病公式発見から12年もの月日が過ぎていました。その間、水俣病患者は増え続けたと思われます。
昭和44年(1969年)、患者はチッソに損害賠償を求めて裁判を起こしました。昭和48年(1973年)に患者勝訴の判決が確定するまでは、水俣病患者は十分な補償を得ることはできませんでした。 一方で、水俣病患者は、地域での差別にも苦しみました。水俣病の原因が明確になる以前は、水俣病が「伝染する」という差別を受け、水俣病の原因が明確になってからも、補償金目当ての「ニセ患者」という差別を受け、そのため、水俣病の症状があることを多くの人々は隠し続けてました。結婚差別もありました。そういう環境の中で、水俣病についての医師の診察を受けたり、補償を求めたりすることはとても大変で困難なことでした。
昭和46年(1971年)7月、環境庁ができ、川本輝夫氏らの行政不服請求事件の結果を受け認定基準を示しました。それは、メチル水銀に汚染された魚介類摂取歴のある者が、感覚障害、視野狭窄、運動失調(手足などのスムーズな働きができないこと)などの症状のうち一つでもあれば認定するというものでした。
しかし、実際には、人体汚染についての十分な調査は行われず、被害の実態解明は行われませんでした。
「クリニック紹介」にも記載していますが、このような状況の中で、昭和45年(1970年)1月、ボランティアの医師有志が水俣地域の患者を診察するようになりました。熊本大学の水俣病第二次研究班のメンバーであった藤野糺医師は、同年6月から、水俣病患者を診察するようになりました。そこで、治療もされず、補償もされずに生活苦にあえいでいた多くの患者を目のあたりにし、このことが、昭和49年(1974年)1月の水俣診療所の設立につながりました。
その後も、県民会議医師団により、患者救済のための医療活動が続けられました。その結果、四肢末梢の感覚障害や失調などをもつ多くの患者がみつかりました。認定申請者の急増によるチッソの経営難が懸念される中、昭和52年(1977年)、国は水俣病判断条件を厳しくしましたが、そのもととなる医学的なエビデンス(証拠)は今日まで何も提示されていません。
実際には、原田正純医師の汚染のピラミッドモデルにみられるように、水俣病には、重症例から軽症例のさまざまな病態が存在すると考えられ、これらを実証するために、藤野医師らは、県民会議医師団と協力して、メチル水銀中毒症状についての桂島研究を行いました。
桂島は水俣市から南西に12km離れた離島です。桂島は、当時としては比較的汚染が少ないとされており、鹿児島大学の研究グループは、昭和48年(1973年)にこの島の住民の診察と検査を行い、「桂島には水俣病患者はいない」と結論づけていました。昭和50年(1975年)、水俣診療所の藤野医師と当時のスタッフは、この桂島を汚染地域として調査し、鹿児島県奄美諸島の一漁村と比較する疫学調査を開始しました。
その結果、桂島の住民は、奄美地域と比較して、感覚障害、視野狭窄、その他の症状が有意に多く、感覚障害のみの患者から、ハンターラッセル症候群の症状を持った最重症の患者まで多彩な病像を示していました。この研究により、感覚障害のみを有する水俣病の存在が医学的に示されました。
なお、検診を受けた桂島の住民の多くは、その後、水俣病に認定されることになりました。
桂島研究によって、県民会議医師団と水俣協立病院は、「メチル水銀に汚染された魚介類を摂取し、感覚障害を有している患者を水俣病と診断する」という診断基準を確立しました。「クリニック紹介」に記載したように、1万人にのぼる患者の掘り起こしが行われました。
患者の多くは、水俣病の認定申請を行いましたが、昭和52年(1977年)に認定基準が厳しいものに変わる前あたりから保留が増えはじめ認定される患者は減少しました。
昭和60年(1985年)8月、水俣病第二次訴訟で福岡高裁は、知事からは棄却されていた原告患者を水俣病と認めました。
チッソは上告せず、この判決は確定しました。判決の中で、政府は認定基準を変更はしなかったものの、この判決を放置することもできず、昭和61年(1986年)6月、汚染された魚介類を食べており、四肢末梢の感覚障害がある患者について、水俣病とは認めないが、医療費の自己負担分の補助を国と県が行う特別医療事業を開始しました。これが現在の水俣病総合対策医療事業となっていきました。この基準は、平成7年(1995年)のチッソと患者団体の和解における解決基準でも採用されました。
一方で、環境庁(当時)の主導で、昭和60年(1985年)10月11、12日、祖父江逸郎氏を座長として「水俣病に関する医学専門家会議」が開かれ、昭和52年判断条件は妥当であるとしました。
その後、日本精神神経学会は、この会議についての調査し、この会議の意見について、いかなる科学的妥当性も見出せなかったと発表しています。
水俣病の病像を争った第二次水俣病裁判、および、国・県の行政責任と病像を争った第三次水俣病裁判においては、証拠となる医師の診断書が必要でした。そこで県民会議医師団と水俣協立病院の医師は、丹念な診察の後に、裁判に参加した1,400名近い患者の診断書を作成しました。その医学的診断についての証言を裁判所で行った医師らの病像は、第二次および第三次水俣病裁判において認められました。
平成12年(2000年)当時、熊本県と鹿児島県で合わせて2,263人が水俣病に認定され、10,350人が水俣病総合対策医療事業の対象として救済されていました。
一方、水俣病関西訴訟は58人の原告が裁判を続け、平成13年(2001年)4月、大阪高等裁判所は、水俣病の拡大に対して国と熊本県の責任を認め、原告の多くを水俣病と認めました。平成16年(2004年)10月15日、最高裁判所も大阪高等裁判所の判決を支持し、国と熊本県の行政責任が確定しました。
最高裁判決後、多くの住民が、水俣病の認定申請をしました。平成17年(2005年)11月、当時の熊本県知事であった潮谷義子は、汚染地域の健康調査を提案計画しましたが、国は拒否しただけでなく、水俣病の認定基準を変えず、救済策を示さなかったため、平成17年(2005年)10月、ノーモア・水俣訴訟が提訴されました。この裁判では、医師団のこれまでの数々の医学データが提出されました。
平成21年(2009年)9月20日、21日におこなわれた不知火海沿岸健康調査では1000名以上の住民が検診を受けました。この検診で、受診者の90%に水俣病に特徴的な神経所見を認めました。未だに多く未認定患者が存在することが明らかになり、平成23年(2011年)3月和解となり、国は原告を水俣病被害者と認めました。 裁判をしなかった患者は、平成21年(2009年)7月に成立した水俣病特措法の施策で救済されることになりました。多くの被害者に対して救済の周知は十分ではないというなどの声を無視して平成24年(2012年)7月末に申請が締め切られてしまいましたが、3年間で約5万3千人が救済されました。
水俣病特措法は、この締め切り時期の問題以外に、指定地域以外の患者や昭和44年(1969年)12月以降に生まれた患者の救済が進まなかったという問題を抱えていました。また、水俣病特措法では、新潟県では異議申し立てで認定になった患者がいる反面、熊本県では異議申し立てが認められませんでした。
水俣病特措法の申請が締め切られる前から指摘されていた救済もれは、締め切り直後から明らかになりました。特に、汚染地域から、日本各地に転出した人々には必ずしも特措法の情報は伝わっておらず、親戚・兄弟間等でも、これまでの差別の影響もあり、特措法が知らされなかった例が少なくありません。また、申請した人でも、指定地域や居住時期、あるいは不十分な診察によると思われる救済漏れがありました。
この状況の中で、平成25年(2013年)6月20日、ノーモア・ミナマタ第2次訴訟が熊本地方裁判所に提訴されました。平成28年(2016年)8月現在、1200名を超える原告が提訴し、東京、近畿でも訴訟が起こされています。
平成25年(2013年)4月16日、最高裁判所で溝口訴訟でも、認定審査を放置された患者(故人)が、感覚障害のみで水俣病と認定されました。ノーモア・ミナマタ訴訟やノーモア・ミナマタ第2次訴訟以外にも、水俣病被害者互助会訴訟、ノーモア・ミナマタ新潟第2次訴訟などが提訴されています。
これまでなされてきた水俣病研究は、以下のような水俣病をめぐる情勢の動きの中で、研究内容を把握していくと、その流れがよく理解できます。